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2018.07.24

お盆の話

『頭痛肩こり樋口一葉』(井上ひさし作)という戯曲があり、舞台が溶明する前に子供たちの賑やかな歌が聞こえてきます。



こんなふうに…
「ぼんぼんぼんの十六日に 地獄の地獄のふたがあく 地獄の釜のふたがあく 盆提灯をともしましょ ともしましょ」
一般には十三日の夜に迎え火で祖先の御霊をお迎えし、十五日(あるいは十六日)に送り火を焚くとされています。




お盆には地獄の釜のふたが開いてご先祖様の御霊が帰ってこられるのだと申しますが、それならご先祖様はみんな地獄で苦しんでいらっしゃるのかと、 悲しくまた不思議に思えます。



現在の盆行事は盂蘭盆経というお経に由来するものと説明されます。
このお経には餓鬼道で苦しむ母を助ける目蓮の説話が記されているのですが、目蓮はどのようにしては母を救うのでしょうか。

餓鬼たちの中で痩せ衰えた母に目蓮はご飯を食べさせようとしますが、母が食べようとすると炭になってしまい食べることができません。
そこでお釈迦様に相談すると、「汝一人の力に非ず」と言われます。つまり母の罪が重くお前だけではどうにもならない、修行僧たちの協力が必要だというのです。
七月十五日は夏の修行(夏安吾)の最終日です。この日に母のためを思ってたくさんの食べ物や香油などを僧に施せば、 その功徳は父母をはじめ先祖七代を救えると教えられました。
目蓮はそのように行ない、釈尊は祖先の幸せを祈るように僧たちに命じました。このようにして目蓮の母は餓鬼道から救われ、目蓮と僧たちは法悦に包まれたのでした。



これにならい、毎年七月十五日には僧に飲食物を施し、父母の恩に報いるとともに先祖七代の福楽を祈るようになったというのですが、この文脈は現代人にはどうも不可解です。
僧への施しがなぜ父母の恩に報いることになるのか、なぜ僧に食べ物を施せば祖先が救われるのか。
仏教では「施し(布施)」はプレゼントではなく、「喜捨」と言って、施すもの自身のための行為なのです。
僧への施しは自らの欲を離れるという功徳を積むためのものであり、その善行こそが父母への報恩ということです。
「御供」という行為も私たち自身の功徳のためにあるといえます。そして御供の対象は、仏(釈尊や阿弥陀仏など)や僧なのです。
ただ実際のお釈迦様自身は死後のことや霊魂のことには口を閉ざし、ひたすら今生きる人間の苦悩と解脱のみを考えたのです。

ご先祖様の御霊を迎えるおまつりは仏教伝来以前からあったとも言います。
「盆と正月」はいずれも日本古来の習俗に基づく年二回の先祖供養祭だったのです。特に盆行事は、畑作の収穫祭と秋の豊作祈願を兼ねて行なわれてきました。
家族を見守ってくれる先祖の霊を迎え、その霊前に一族が集まり、収穫を祖霊とともに祝い寛ぐのでした。